験(げん)担ぎというもの

 今日は出かける用事がなかったので、午前中3か月近くぶりにウォーキングをしてみたが、ウォーキングをするにはまだまだ暑いということと、脚力の衰えを感じないではいられなかった。今の脚力では難波の近鉄と南海の改札口を5分で歩き切ることはとてもできないだろうし、南海の3階ホームまでの長いエスカレーターを歩いて登りきることもできそうにない。いやもうそんなことする必要もないから別に出来なくてもいいんだけど、かつては出来ていたことが出来なくなるというのはなんとも寂しい限りだね。
 今日のタイトルなんだけど、何が言いたいかと言うと、ゲン担ぎというか縁起を気にするようでは何事においても大成しないだろうし、さらに言えば人生においてもよくなることはあまりないだろうという私なりの考え方である。ゲンを担ぐ、縁起を気にするということは非科学的なことを信奉するということにほかならず、そこには何の根拠もないことにこだわるという非生産的な行為を肯定することになってしまう。ではなぜ人はゲン担ぎをするのかと言えば、自分に真の実力を見出すことが出来ていないからだと思っている。実力を見いだせないから何かに頼ろうとするのである。靴を右足から履こうが左足から履こうがそれでその日1日の結果が変わるはずもないのだが、自分に自信がないとそういった行動をとりがちである。人間であればだれでもこういったゲンを担ぐという行為をしたことがあるだろうし、今現在においても少なからずそういった行為をしている人もいるだろうと思う。私もなかなか完全にこの手の行為を無くすまでには至っていない。以前に比べたら大分と減ってきて絶滅危惧種並みになりかけているが、まだ100%払しょくできていないのが今後の課題である。先にゲン担ぎを非科学的な行為であると言ったが、予感に従う行為はゲン担ぎと違って非科学的な行為とは言えないことを明記しておきたい。予感というのは自分が生まれてから今までに経験したことが潜在意識として脳に記憶されており、その潜在意識を基にして感じるものであると認識しているので、非科学的とは言えない行為であるというのが私の考え方である。それに対して靴下をどっちの足から履くとか、左右どちら側の改札を通るとかの行為には科学的な理由、理屈は微塵もない。それからゲンを担ぐのとはちょっと違うかもしれないが、何か行動を起こそうとするときに、特段の理由がないにも関わらず〇日になったら、〇月になったら始めるというのもダメだね。早い遅いの問題ではなく、特定の時期にこだわることがダメなんだよ。まあそんなことからスポーツ選手でもトレーダーでも、ゲンを担いでいるうちは一流にはなれないんだろうと思っている。逆に言えば一流はそんなことには一切こだわらないんだろうとも思っている。


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