八百長とは?

 年末大みそかに行われた総合格闘技の大会の中でシバターと久保のカードが八百長だったということが当事者からの発言で明らかになり、この件で色々と炎上騒ぎになっているようなのだが、この試合を八百長だとするのは果たしてどうなのかなという疑問を抱かずにはいられない。 私の認識では八百長というのは試合をする前から勝敗が決まっている、決められていることを言うのだというものである。 今回の場合発言内容からは予め勝敗が決まっていたわけではなく、1Rだけ流す感じでやって2Rからガチでやりましょうというものだったようである。 つまり勝敗は決まっていなかったということであるから私の考えでは八百長とは言えないということになるのだが、世間ではこれも八百長だと主張する人が一定数いるようである。 確かに最初から100%のガチではないかも知れないが、あくまでどちらが勝って負けるという取り決めはされていないのだからこれを八百長と呼ぶのには個人的にすごく抵抗がある。 どちらの考え方をするかはその人の性格によるところが大きいのかもしれないけど、もう一度国語辞典で八百長という言葉を引いてみたらどうかと思うのである。 その上で正しく発言されたらよろしいのではないかと思う。 いつも言っているが国語以外の教科は中学までの義務教育レベルで十分世の中渡って行けるが、こと国語に関してだけはもう少しレベルを上げないと世の中を生きていく上で意思疎通なりに支障をきたしてくることもあるのである。 八百長という言葉の定義の問題はこれくらいで置いとくとして、この対戦上の問題は他にもあるようだ。 まず一つは久保側にあるのだが、事前にこのような申し合わせがあったとしてもそれを試合後に暴露するような形で発言しちゃダメでしょ。 しかも自分が負けたので暴露した感が前面に押し出されてしまうから自分にとってマイナスのイメージしか生じない、そこのところが分からなかったのかな?と思うのである。 勝っていたら絶対にこんなこと言ってないよね。 次はシバター側の問題は、1Rは適当に流して2Rからガチで勝負するという申し合わせにもかかわらず、1Rで決着を付けてしまったところにある。 相手は2Rから本番勝負と思って戦っているところへ1Rでガチで仕掛けりゃ不意打ちになるじゃん、いわばこれ、闇夜に後ろから殴りかかるようなもんだろ。 そして両者ともの問題として八百長とは言えないまでもこういう「提案」を事前にする方もどうかと思うが、された方も嫌なら嫌と撥ねつけるべきでしょ。 それを一旦は呑んでおいたにもかかわらずに後でどうのこうの言うのはアスリートとしてというより人間としてどうなのでしょうか? 以前はよく見ていた格闘技だがここ10年程前からほとんど見なくなった。 理由は自分でもよく分からないのだが自分には合っていないようだ。 まだボクシングの方がいい。 でも私が一番好きなのは何と言っても昭和のプロレスである。 中でもブッチャーのフォーク攻撃とシークの火炎殺法が一番好きだ、自分ながら私の性格がよく出ている嗜好だと思う。 これを残忍極まりないと捉えるのか、なんて心優しいと捉えるのかの判断は読者にお任せしたい。


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